行と日常生活 


「正座観法行」による功徳は前述の様にまことに広大無辺ともいえますが、だからといって「正座観法行」さえしていれば、日常生活において何の努力もいらないのだ、という訳のものではありません。
 本来、日常生活そのものが、朝起きてから夜寝るまで、四六時中すべて
修行の連続で、蒲団のあげ下ろしから、掃除、洗濯、炊事、日常の起居振舞い、礼儀作法、言葉遣い、 或いは職場の仕事、家庭や仕事場での対人交渉等々、何もかも修行といえないものはあり ません。
 この日常生活で、私達は絶〔た〕えず大小の失敗をし、過ちを犯し、自然の理法から外れた行動をしがちであり、時に自分のそうした過ちすら気づかずにいる事が多いのです。こうした知らずに犯している小さな過ちの積み重ねが、いわゆる「
〔ごう〕」として私達の霊体を汚し、心に偏〔かたよ〕りを作る因〔もと〕ともなって行くものなのです。
 勿論、「正座観法行」をやっておれば、行中にその汚れがある程度浄められ、「業」 が祓われて行きますが、一方、日常生活で自ら反省をし、その過ちを正して行く努力が矢張り人格完成に欠〔か〕くことの出来ない大事なことであります。そうした日常生活での小さな悟りの積み上げが、「正座観法行」による功徳と相まって自己を完成へと高めて行くことになるのです。
 そこで、注目すべきことは、「正座観法行」をやっていますと、日常生活での反省がより広く行き届き、又より深くなり、これまで気づかずにいた様な事にもよく気づく様になることです。その上、「行」を続けて行くうちには前にも述べた「境地転換」という様なことがおこって、日常における感じ方、考え方、行ない方が飛躍的に改善され、
人生観も変わるという様なことが起こります。
 一方また、日常に小さな悟りを積み重ねる努力がなされて行くと、それが即「行」にも反映し、「行」の段階を高め、その
境地を深めるのに大きく寄与〔きよ〕することに なります。
 この様にして、「行」と「日常生活での努力」とは相補い且つ助け合って、
人格および霊格を向上させて行くのです。
 中にはまた、「行」が楽しくてしょうがないという気持から、自分の仕事或いは家業を放擲〔ほうてき〕してまで「行」に偏する人がありますが、これも正しい修行の態度ではありません。日常生活もまた「修行」であると分れば説明を要しないことです。
 仕事を終えた上で、或いは仕事に差支えない様に時間の都合をつけた上で、「行」に励むのが望ましいのです。しかし、その様な心掛けでおれば、自然に「行」をするための時間は出来てくるもので、逆に、仕事が忙しくて「行」をする暇がないというのは、真剣に「行」をしようという意思が欠けていると見なされても仕方がないことです。