神と人


 原始時代には、私達人類の祖先は、太陽や火や水、その他色々の自然現象を恐れ敬い、これを「神」として祀〔まつ〕ったのであります。この様な大自然の中の諸々〔もろもろ〕の力を「自然神」と称しても良いでしょう。しかし、これら自然神は直接私達人類に教えを説〔と〕くという様な事はありません。
 では、「密教」で人に直接教えを説かれるという「神」とは、一体どういう存在でありましょうか。
 その説明をするには、まず私達人間のことから始めねばなりません。

 進化論によれば、地球上の人類は、他の生物から進化したものだといいますが、これは飽くまで一つの仮説に過ぎません。そしてこの後、人智がどれ程進んでも、
人類の起源を人間が知ることは不可能といってよいでしょう。
 すくなくも、人間の精神という複雑精緻〔せいち〕な働きが唯物論的に他の生物からの進化によって説明されることは、永久にあり得ないでしょう。
「大元密教」では、神の教えを通し、はっきりこの事を否定しています。
 この地上に出現した人類の祖先は、神霊とのつながりにおいて発生したのです。私達人間が、肉体だけでなく、それと表裏一体となって働く
霊体をもつ、霊的存在であることを知るならば、その発生の源についても当然うなづけると思います。
 事実、人間は本来霊的存在であり、この霊体これが本体ともいうべきもので、肉体は一時の仮の衣〔ころも〕の様なものなのです。この肉体は、私達の知る通り、何十年か経って老い古びて使いものにならなくなれば、そこに死という現象によって脱ぎ捨てられ、霊体は霊界にあってある期間待機した後、再び新しい肉体をもってこの世に生まれ変って参ります。この様に生まれ変り死に変りを幾十百千回と重ねて、人は人間としての体験を積み重ね、それ等の体験を通して修行し錬磨され、次第に人間としての完成に向かって向上して行くのです。
 かくしてついに、
の世界で神たるに相応〔ふさわ〕しいと認められるまでに到った霊体が、神格を得ていわゆる「神」とよばれ、自然神と区別して人格神といわれます。
 従って、
人格神はいわば私達人間界の上位にあって、私達人間とも密接なつながりをもっており、時にまた肉体をもって神のまま人として人間界に活動するという例も沢山あるのです。ここに「人間とは神の子にして神たるべき資格を有する生物である」という定義を本教では致しています。
 そこで神界には自然神(自然そのままの力と智の働きかけるもの)と、人間界に幾十百千万回と多くの人間生活を経験し、人間界と大自然界を通しての体験により力づけ智慧〔ちえ〕づけられて、神格化された人格神とが同居しているのです。
 私達人間界と交流し、私達を指導し教化し守護しているのは例外なく後者の人格神であります。
 この人格神の最高位の神にして、初めて人類創生以来のあらゆる体験を積み、大自然の中にある力と智のすべてを我が身につけ、かくて自然神と感応〔かんのう〕道交出来るのであります。即ち、最高位の人格神は大自然神なる根本神と表裏一体となって活動するのであり、この渾然〔こんぜん〕一体である根本大神を、本教では

   大〔だい〕 元〔げん〕 太〔たい〕 宗〔そう〕 大〔おう〕 神〔がみ〕

と称名尊崇〔しょうみょうそんすう〕し、主宰神〔しゅさいしん〕として奉斎〔ほうさい〕しております。
 従って、大元太宗大神は自然神であると共に人格神でありますから、私達人間に法を説く事が出来るのです。
「神自らの教え」とは、この根本神なる大元太宗大神の説かれる教え、即ち、大自然に包蔵〔ほうぞう〕される一切の真理についての教えであります。
 それならば「神自らの教え」は、大元密教の出現を俟〔ま〕つまでもなく、既に人類が普〔あまね〕く享受〔きょうじゅ〕していなければならないではないかとの疑問が湧くことでありましょう。人間は条件と格位が備われば、稀にして縁ある人格神と感応道交することが出来「
密教」的に神より教え受けたものを他に伝え説き、ここに顕教の出現を見たのですが、その教える人格神の格位の如何により、教えとして不完全なものが殆〔ほとん〕どです。しかし、大自然神と渾然〔こんぜん〕一体たるところの大人格神と、直接感応道交できるかといえば、これはまず不可能です。まして根本神自らの教えに誰でも触れさすことなどは夢想だに出来ないことです。それでは如何にしてそれが可能になったかといえば「法は遍満するものではあるが、大正覚者を媒介としてのみ知り得るものである」理〔ことわり〕の通り、大正覚者即ち大人格神の人間界応現によってのみ可能なのであります。この応身である大人格神こそ密教教主であらせられ、包蔵せられる大自然神の智と力に触れ得るところの、史上初めて許された修行法が「正座観法行〔せいざかんぽうぎょう〕」であり、まことに重大事であります。